家庭教師ブログ
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2024.07.29
こんにちは。家庭教師Campライターの瀧本です。
恒例の挨拶になってもう言うのやめようかなと思うくらいですが言ってしまいますね。
「毎日暑いですね!」。
いきなりですが皆さま、今年の夏はどこか旅行に行かれますか?
本日のブログ記事は、少し夏らしいお出かけをしたくなるような内容にしたいと思います。
「産業遺産」、何やら見慣れない言葉かもしれません。
ユネスコ UNESCO が定める、世界自然遺産・文化遺産をご存知ですね。
その中でも、文化遺産にあたるものは「姫路城」(兵庫県)や「厳島神社」(広島県)、「白川郷・五箇山の合掌造り集落」(岐阜県・富山県)と例がありますが、文化遺産のなかでも近代工業の先駆けになったものが「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県)、
「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」(岩手県、静岡県、山口県、福岡県、熊本県、佐賀県、長崎県、鹿児島県)ですね。
工業は衰退したとしても、その歴史を保存して新たに観光資源として見せる取り組みがなされています。
さて、レガシーというとほぼそれは「現代に使われないもの」というイメージが拭えませんが、「灯台」は現役で活躍するレガシーそのものです。
前置きが長くなりましたが、本日はその灯台がどのような歴史を背負ってかの土地に立っているかを見ていきたいと思います。
灯台とは、海に突き出た陸地(岬)の端に立って、日没後の海に向かって光り、船を安全に目的地に導く守護神のような存在です。
現在会いに行ける灯台は西洋式灯台といって、明治時代に日本に来日したイギリスやフランスの技師によって伝えられたものです。
それ以前にも灯台にあたるものは江戸時代に日本式のもの(石灯籠などさまざまな形があります)が100基以上作られたとされています。
またさらに過去の文献にさかのぼると、遣唐使の船を迎えるにあたって松明をかかげたという記録もあるので、古代から必要な航路標識だったといえるでしょう。
さて、話を戻して西洋式灯台が建設されるようになったのは、
日本が1854(嘉永4)年、日米和平条約で下田(神奈川県)・箱館(現函館、北海道)の開港、
また後年の日米修好通商条約の函館、横浜、長崎、新潟、神戸
(この5港は地図上で位置も確認しておきましょう。テストに出されます)の開港により、
外国船が出入りするようになったからです。
しかしそうしたなかでも外国人が日本にやってくることに対して反発(「攘夷」)することがありました。
1863(文久3)年、長州藩と薩摩藩がドカンと外国船に対して砲撃してしまう下関事件があり、
その後幕府はいわゆるやらかしの代償として各国に賠償金を支払うよう迫られるのですが、
その支払い額を減らしてもらうために各国の要求に合わせて灯台建設を約束したのでした。
灯台建設はなぜ?というと……たとえば、新しく道路をつくるには、信号機も必要ですね。
列強各国は自分たちに都合のよい定期的な航路を新たに作りたかったのです。
そうすると灯台も必要になる。定期航路を作ると人が行き来する、人が行き来するとそこに利益を産ませる、ということになるので、灯台はその下支えのインフラとなったわけですね。
当時イギリスは特に、フランスとも提携してあらゆる情報を集めて日本全土からの灯台建設の候補地を定め、技師を派遣しました。
列強による帝国主義の影響、そして日本としても富国強兵・殖産興業の目的でも、灯台建設が続きます。
さて、現在みなさんのお住まいの近くにある灯台はどんなものがあるでしょうか?
この日本全土に保存された「灯台」の歴史は、
日本の近代化において、外交面、また、科学技術の面でも、
さまざまに関わる人々に想いを馳せることができます。
機会があれば、ぜひいろいろな灯台に会いに行ってみてください!
またいずれまた近いうちにこちらで灯台の話をしたいと思います。
みなさまよい旅を!
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